2012-05-14
バルビエ×ラブルール展
練馬区立美術館にて、6/3まで。
唐突ですが本日無職の分際で希少品の古書を手に入れるために無職にあるまじき大枚をはたいたので(いや、でも東京都内の図書館では国図と都立、つまり館内閲覧は出来ても外部貸し出しのない所にしか無いよな代物にしては大変にお安かったと…お…思うんだ多分…)己を戒めるために本エントリ中の一人称を「無職」とさせて頂きます。ちなみにこの購入した本はこの展覧会とは何の関係もないと見せかけて実はちょっとある。それは追々。
という訳で無職(一人称)東京住まいも結構長いんだけど練馬区に、少なくともここが練馬区であると意識して降り立ったのははじめてのような気がする。練馬区に美術館があった事も知らなかった。公式サイトのアクセスマップ見たら「都心からも意外と近い!」とか書いてあって「意外と」の辺りに何と言うか、練馬区の練馬区性を感じて泣いた。「意外と」っておい23区。しっかりしろ23区。いや実際中村橋の駅からすぐだし、駅周辺も高島平よりは何かあるし、その高島平からさらに延々山の中の板橋区立美術館よりは都心からの近さが「意外」ではないので、練馬区にはもうちょっと自信持って欲しい(板橋区立美術館には何の恨みもないんだけどはじめて行った時のカルチャーショックが尋常じゃなくてな…)。
さて、実は無職めはアールヌーボーとかアールデコとか19世紀末〜20世紀初頭の挿絵とか、それもフリルふりふりレースもりもりの絢爛豪華きらきらなのやふわふわロマンチックなのやらダークにお耽美なのやら結構好きでして、ラッカムやビアズレーはもちろんの事グリーナウェイだってニールセンだってアラステアだって大好物ですよ、と何か柄にもないような気がして必要以上に「いいじゃないか無職がこういうの好きだって!」とムキになってしまうこの類い。誰も悪いとは言ってない。悪くない何にも悪くない。よし、アールデコだ。バルビエだ。文句があるか。
古書コレクターの鹿島氏のコレクション、という事で展示作品はほとんど本であり、原画はごく僅か。しかしまず本が美しい。というか、もちろん原画の価値とか、原画を見てはじめて解る事とかも十分解った上で(そして「原画が見たい」という欲望を自分の中にがっつり持った上で)言えば、こういうのって「本」の形で完成品、印刷されて、本文と組み合わさったりレイアウトされたりしての「作品」なのではないか、とどこかで思っている…なんぞというのは後付けの理屈で、この時代の豪華挿絵本がとにかく好きなんだ無職は。活字との組み合わせとか、装丁とか、本当に奇麗でどきどきする。
ラブルールはいまひとつ好みに届かない感じだったので(何故か80年代ポップアートっぽい線だなとか思ったんだけど、言うまでもなく80年代ポップアートがラブルールっぽいんであってラブルールが80年代っぽい訳じゃないのであって無職めはあまりカジュアルに時空を歪めない方がいい)ひたすらバルビエの話をしよう。
先述の通り柄にもなくフリルてんこもりとか(見るのは)好きだし、アールデコファッション風のシルエット――タイトにまとめた髪型に小さな肩幅、体の線に添うマキシ丈、みたいな格好がリアルに好きなので、そりゃロココ風のも、アールデコファッション画も素敵なんだけど、やはり何よりたまらないのはギリシャ趣味やオリエント趣味。特に古代ギリシャ風の挿絵がもういちいち好き。壷絵風を模した、しかし同時にがっつりアールデコの画風とかたまらない。何が素敵かって、色気というか、エロティシズム、いやらしさ。特に男性がエロい。ニジンスキーとかモデルにしているので当然と言えば当然だけれど、猫のような肢体の、中性的に色っぽい男たちが、しかしヘテロセクシャル的ないやらしさで女性と絡むエロティック。同性愛的(これはどっちかと言うと実際の同性愛というよりはそういう概念というか、ヘテロのファンタジー的な意味のアレで。あ、あと実際は女性の同性愛描写はあったんだけど)とも異性愛的ともつかない危なっかしい感じが、下品にならず、しかしおキレイにもなりきらず、実にいい。粘膜的なエロ描写は苦手だけれど、こういう「いやらしさ」はたまらなく好きだ。
ところで今回の出展品の中に「ヴィ・イマジネール」という豪華挿絵本がある。作者はマルセル・シュオッブ(シュオブ)。日本でも何冊か邦訳が出版されていて、この無職も多田智満子の翻訳がすばらしく美しい「少年十字軍」だけは所持している(というかこれしか読んだ事ない)けれど、今はどうも殆どが絶版であるらしい。
はい、もう皆さんだいたい解ったと思う。冒頭で言った『無職のくせに買った』のが、この「ヴィ・イマジネール」の邦訳「架空の伝記」だ。絶版も何も限定千部未満。何とか読んでみたいけれど手に入るんだろうか、と思って検索したら、買えなくはない値段で置いている古本屋を見つけたのが昨夜。
しかしネット通販はやっていない、お店が開く時間は午後から夕方というだけで不定。紹介している商品は全て店頭に置いているからなくなってたらごめん☆連絡くれたら2、3日は取っとくよ(大意)とのこと。一晩迷いに迷ったあげく、ちょうど他にも探してた本(これは見つけたら迷わず買うつもりだったし、普通に買える値段であった)が一緒に紹介されていたので、えい毒を喰らえば皿までだ、と「アレとコレはまだありますか、あったら今日買いに行くので取りおいてください」というメールを投げて、運を天に任せてとりあえず美術展でも見て落ち着こう、と出て来たところだったのだ。
もちろん展示されている本はフランス語なので読める訳もなく、従って描かれている絵もどういうストーリーに基づくかまるで解らない訳で、ただただ美しい絵を見ながら「ああどんな話なんだろう、これでもう売れちゃってて手に入らなかったら無念さ倍増じゃないか」と展示室で内心もんどりうち、結局落ち着かずメールの返事が来る前に、そろそろ店に人いるよね、というタイミングですかさず電話して(しかもその時点で店から徒歩五分くらいのところまで辿り着いている)「あ、今メール確認しまして、お返事しようとしていたところです」と言われるという大変迷惑な客と化してしまった次第。
そんな訳で今手元に本がある訳だが、図書館から借りた本が積み上がっているのでまだ読めず、勝手なイメージばかり先走ると内容に失望しがちなのでバルビエの絵の印象が薄れてから、とも思うけど、こうして放置しているうちにどんどんイメージが先走りそうな気も。このタイミングで手に入れて/この展覧会に行って良かったのやら悪かったのやら。まあそれは本を開くまで解りませんわな。さてさて。
2012-05-12
とうとうTwitterに書いた事を使い回すようになりよった
しかも10日位前だ。
いや、その頃Twitterで配偶者を「知らないよその人」だと思う事にすると知らない人にしては大変に親切に気を使ってくれるし自分の好みとかも知ってるしですごくいい人に思えて関係がよろしくなる、的な話が出回っていて、そんなの配偶者が「いない」どころか「そういう概念がない」領域に達したエターナルソロプレイヤーの私には全く関係のない話、と思いきや案外そうでもないのではないかと。
私は普段こうしてブログを書いている時やだらしなくネットサーフィンしている時は、iTunesのシャッフル再生で音楽を聴いている事が多いんですが、そろそろ風呂に入らなきゃ、とか、トイレに行きたい、とか、そういう時によく「でもこの曲好きだから中断したくない。これだけ聞いたら行こう」と思う→次の曲もすごく好きな曲→いつまでも動くタイミングがつかめない、というループにたびたびはまります。その度に「おれのライブラリにおれの好きな曲以外が入ってる訳がないのだから、いつまで待っても好きな曲しか出てこないに決まってるだろう」と己に言い聞かせてはまた忘れる訳ですが、この頭の悪さをトイレに行けないとか成人として駄目な方向ではなく、こういう前向きな方向に生かすとおそろしく感動的な事になるんではないかと。
だって「おれの好きな曲しか入ってない」んですよ。10GBくらい(面倒がって手持ちのCD全部は読み込んでないのでこの程度)全部好きな曲!シャッフルでかけてもかけてもどこを切っても好きな曲!それを自分でセッティングしたと言う事を忘れる事が出来るというのは、この「配偶者を知らない人だと思う」理論にあてはめると実に幸せな状態なんではないかと。これがたまたま入ったカフェで流れてる有線か何かだと思うとものすごいことじゃないですか。すごいラッキーですよ。それが有線じゃなくてそのカフェの人の好みでかけてる曲だった、とか言ったらもう絶対その店贔屓にするでしょ。そのお店の人のことちょっと好きになっちゃうでしょ。根拠無くいい奴だなとか思っちゃうじゃない。その「いい奴」誰かつったら私ですよ。わあい俺最高!ともう一気にハッピーです。五秒くらい。
そういうノリで自分ちの本棚とかCD棚とかも、知らない人の本棚だと思って見てみます。もうびっくりしませんか。何これ私の好きな本しかない!好きなミュージシャン全部同じ!「友達になってください」って思っちゃうじゃない。それ自分。こんなに自分と趣味があう人誰かっていったら俺。やっぱおれ最高にしておれ大好き。
しかも知らない人だと思ったらおれなので、これ全部おれのものなんですよ。うわあずっと欲しかった絶版本もある!今もう手に入らない廃盤CDだってある!これが!全部!自分の!自分が好きにしていい!ちょっと気絶するくらいの多幸感じゃないですか。だって一つ残らず自分が欲しくて買ったものだから、自分が本当に欲しかったものしかないんだよ。世界中にこんなに完全に「自分の欲しかったものしかない」場所ってなかなかない。何て素晴らしいんだおれの本棚、おれのCD棚。そしてこんなに素晴らしいコレクションを構築したおれは何て素晴らしいんだ。幸せだ。
と、何やら自己啓発臭を帯びたうさんくさい幸せ探しの様相を呈して来ましたが、このテンションはどう頑張っても五分くらいしか続かないのでサンマーク出版から「自分を見失えばどんどん幸せになれる」とかそういう本を出してぼろ儲けするのもちょっと無理があるのですが。いやサンマーク出版ならどんな無理がある事を言ってもいいような気がするのでもしここをサンマーク出版の方がご覧になっていて共にバカ開運法で世間をだまくらかそうという志に共鳴してくださるなら喜んで執筆しますが。うさんくささと根拠の無さなら御社が今まで出したどの本にも匹敵する自信がございます。
でも本当に自分の本棚、自分にとってつまらない本が一冊もなくて、どの本も手に取ってページ開けば面白いっていうのはやっぱり大変に素敵だよなあと。あんまりいちいちこんな自己催眠みたいな変なテンションにならんでも、たまに眺めて悦に入るのも悪くないです。でももう大人なんだから好きな曲の最中だろうと何だろうとトイレには行った方がいいと思う。うん。解ってるんだが。
蕭白ショック! 曾我蕭白と京の画家たち(後期)
前期の感想はこちら。
招待券だとリピーター割は不可でした。まあそんな甘くないですね、はい。
基本的に感想としては前期とそう違わない。いや、本当につくづく見飽きない。見疲れはするけど飽きない。細部が見れば見る程すごい。
とにかく一枚の絵に密かにいろいろな技法をごんごんにミックスしてくる人だな、と思って見ていたんだけど、後期の目玉の一つであろう「群仙図屏風」は「密かに」どころじゃなくその極み。水墨と淡彩と極彩色が入り交じった画面。水墨パートも淡くぼやかしたのからくっきり細密に輪郭を取ったのまで。金箔も使ってるし、もうとにかく日本画全部、みたいな無茶苦茶さで隅から隅まで埋め尽くされている。
これはいい絵なのか悪い絵なのか、美しいのか醜悪なのか、それどころか好きか嫌いかの判断もつかない。ただただ「無茶苦茶だ」とバカみたいに口あけて、あ、ここでこんな事やってる、こここんな風に書き込んでる、と眺めるしかない。多分、10年前の私だったら「嫌いだ」「こんなものの何がいいんだ」と言ったと思う。「確かに技法はすごいよ、でもこんなにいろんな事出来るんですよーってだけじゃいい絵じゃないだろう、ただの悪趣味じゃん」と切って捨てたんじゃないか、という気が。今はこうしてぽかーんと「すげえ」って感心してる訳で、ここ数年でそれまでの全生涯合わせた分の十倍以上の日本画見て、それなりにスイッチが増えた、と見せかけて何かどんどんバカになってる気もするな私。まあいいか。
あと前期でも印象に残った「鷹図押絵張屏風」。前期は右隻だったのが今回は左隻に展示替えだったのだが、ちょっとばかりコミカルな右隻に比べて左隻の殺伐っぷりときたら。いやこっちもディフォルメ利いてコミカルではあるんだけど、こちらはたたみかけるように他の鳥を襲い喰らう描写が続くバイオレンス編。擬人化ディフォルメが利いてるだけに襲われる方の顔がホラー&サスペンスすぎて本気で引く。子供見たら泣くぞこれ、というひどさ(褒め言葉)なのだが、しかし黒い鶴に襲いかかる鷹の、翼が重なり合う構図とコントラストのかっこよさときたら。
鶴に襲いかかる鷹と言えば、”波の上を飛ぶ鶴”という縁起物モチーフ(朝廷で第一位の位に昇進するのを意味してるそうです)を描いたはずのものに、何を思ったか鶴の背後に追いつめる鷹を描いてはい襲われてもうすぐ死にまーす、という代物に仕立て上げた大変にすばらしくもひどい作品(「波濤鷹鶴図屏風」)があったんだけど何かイヤな事でもあったんですかこの人は。波の描写など大変に美しいだけに全力で気持ちのやり場を見失う傑作だった。本当に何を意図してそんな。
「京の画家たち」セクションではひたすら応挙に持っていかれた。応挙はなあ…応挙に関してはもう私がどうこう言う事もねえなというか、応挙が上手いとか当たり前だろってくらい(いや、私が好きなような画家はみんなだいたいそうなんだけど。ミーハーだからね)、何か当たり前のように安定感のある上手さ。
応挙師匠に関しては「なんだこれ」っていうの出てこないな、という根拠のない確信がある。そんな量見てる訳じゃないので解んないけど、そんな量見てる訳じゃないのに何故かそう信じている。なればこその「師匠」呼び。別に蘆雪の師匠だからというんじゃなくて、何となく「師匠」と呼びたくなる人種というのがこの世には存在する。私の中で応挙はそういう存在だ。あくまで何となく。
2012-05-10
生誕100年記念写真展 ロベール・ドアノー
東京都写真美術館にて、5/13まで。
会場に入る前にガーデンプレイスのベンチでジュース飲みながらまったりしてたら進みかけてた仕事の話が流れた電話が来たとか会場出てからゆっくり出来そうなカフェを求めてうろうろしてたら年金払えって電話がかかって来たとかそういう無職感あふれる殺伐とした日常の合間に見てきたよ畜生め。あとどうしてもドアノーかアドノーか覚えられないよ。もういいや何でも(どうしたんだ)。
相変わらず写真というのは全くどういう目を持って鑑賞するものなのかよく解らず、解らんのでちょっとでも好きだなあ、と思ったりこの名前は知ってる、と思ったら闇雲に見るしかない。という訳で誕生日にGoogleロゴになってるのを見て、ああこの人は知ってるわ、くらいの気持ちで「行くかもしれない展覧会」リストにこれを入れておいた訳だが、会期ぎりぎりだったけど行ってよかった。面白かった。
誰でも知ってる私でも知ってる「パリ市庁舎前のキス」で有名なドアノー。これは(今ちょっと調べたら)演出写真らしいけれど、ああいう感じの、市井の人々の日常の一こまを切り取ったような写真が多い。
子供が多い事と、「パリ市庁舎…」みたいなかっこいい美男美女よりは、あまりかっこよくない普通のおっちゃんおばちゃん悪ガキ雑種犬が中心。ピンポンダッシュする小僧ども、太って仏頂面の奥さん。ウィンドウの中のいかがわしい絵を見る人々それぞれの百面相。壁一面にえっちなピンナップを貼って満足げに見上げるおっさん。心が荒んだ無職としては時として「温かな目線」「ユーモアとペーソスとエスプリ」かよお、とげっそりしそうになるけれど、ぎりぎり気持ち悪くならない引き締まった冷たい視線とか意地の悪さとかひんやりとした悲しさとかもある。犬がいい。とにかく犬が出て来る度にいちいち味わい深い。
人の表情、人の姿がメインではない写真もよかった。ウェットに描写される情景とクールに切り取られる光景のバランスみたいなものが面白い。「サンジェルマン・デ・プレの交差点、冬」という、雪がつもりかけた交差点を俯瞰した写真が特に気に入った。車や人の動く通りに雪が溶けて黒いアスファルトが覗く。画面の中の動きがすごく心地よい。
しかしやっぱり写真てよく解らんのだよね。好きな写真と嫌いな写真は自分で解る。絵だって別に良し悪しなんぞ解ってないし解ろうとしたこともないので、好きか嫌いかでいいじゃねえか、とは思うけど、「その写真が好き」なのか、単に被写体が好きなのかがまだ今ひとつ判断つかないし(あー、この瞬間を撮るか、この構図か、というすごさ、好きさはあるけど)、よっぽど特徴がはっきりした写真家でないと「あ、ダレソレの写真だ」というのは解らない。
何よりも「好きな写真」と「嫌いな写真」の間に莫大な、それはもう莫大な「ただの写真」がある。絵なら「好き」「嫌い」「興味がない/印象に残らない」なんだけど、写真だとこの「興味がない」層が「写真」なんだ(まるで日本語として成り立ってねえなこの文章)。普通の写真、ただの写真。車である、建物である、人である、そういう感想しかない、「ただの写真」。
今回の展示でも、最後に展示されてた’80年代の現代的な街並を写したカラー写真は「うむ、ただの写真である」としか思わなかった。被写体が個人的に全く面白くないものだったのと、私が実にド素人にありがちな事に、白黒だったらカッコイイけどカラーだとおゲージュツ写真として見られないのと、の合わせ技だろうか(そう、白黒だと「ああなるほどフィルムはデジタルと空気感が違うとはこういう事なのかな」とか思うんだけど、カラーはフィルムのカラー写真ってそれほど有り難みないんだよな。70年代前半生まれだから、80年代のフィルムのカラー写真って私にとってまさに「ただの写真」なんだ。あまり昭和を有り難がらない昭和育ちという事もあり)。いや、しかしやっぱり解らんなあ、ばっかりではなくて、例えば「やっぱり写真集とかじゃなくてフィルムからプリントしたものを見る意味はあるのか」とか、そういう事は最近ちょっと解ってきた。この「雪の積もったエッフェル塔」とか、絵はがき買ったんだけど三次元的な空間の感じが全然違う。手前の降る雪とエッフェル塔の間にもっと深い空間が広がっていて、なるほどなあ、これは、と。
本当に頭悪いからこういう事はやみくもに数を見ないと解らない。生で見てみるものだな、と、なんかえらい当たり前の結論である。
2012-05-09
「中二病」と決めつけたがる年頃ってあるよね、という話
だいたい何か言いたいことがあって書き始めるとタイトルで完結するな。
いや、北斎を見てきたんですよ今日。て北斎と何が関係あるかというと、例によって風が吹いて桶屋が儲かる式にスタート地点と着地点の関連性が見えにくい、解りやすく注意欠陥症候群傾向がある成人の典型的な思考パターンに陥っただけで北斎関係ないんだけど(いい加減病院で診断貰った方がいい気がするな私も)。
北斎と中二病、と言えば言うまでもなく、最晩年の画号「画狂老人卍」なんですが、これって「中2」なのかな、とちょっと思ったのです。確かに子供や若者が「画狂人」を自称した上でペンネームが卍だったらそれはまぎれもなく中2病と呼ぶに相応しいと思うけど、80過ぎてこれを敢えて言ったら(そして「画狂『老人』」と言うのは)、それは子供の自己陶酔とは全く違うものなんじゃないか、私はまだ若いから(と、もうすぐ四十が敢えて言う)80を過ぎた境地というのは解らんのですが、その境地が解らん若造が自分たちの判断基準で「いい歳して」と、ガキの戯言をいい大人/老人が言っていると決めつけるのこそ子供じみているのではないか、と四十も近くなるとうっすら思う訳です。
北斎で思い出したというだけでちょっと前からそういう感じの事はずっと思っていて、例えばジョージ・ハリスンが「世の中をよくするにはどうしたらいいですか」と聞かれて答えた「政治家を全員殺す」という発言。これ、確かジョージがもう五十代の頃の発言だったと思うんだけどもう五十代の大人が真顔で人の目を見て言うにはあまりに大人げない発言に、リアルタイムで見た時は大変に震撼し、ポール・マッカートニーの「ジョージは永遠のティーンエイジャー」という発言もさもありなんと納得したものだけど(当時は「中二病」なんぞという言葉はなかったけれど、以来この発言の「ティーンエイジャー」はだいたい「中学二年生」の意として理解される事になる)、当時のジョージの年齢に自分がじわじわと近づいてきて、そうなのかな、これはガキかおまえは、と笑うところであったのかな、とうっすら思う訳です。そもそも笑った当時の自分が中2かそこらだった(多分)訳で。
14歳が「政治家を皆殺す」というのと、五十歳が言うのとは全く違うんじゃないかと。これはジョージを永遠の中学生(意訳)呼ばわりしたけど本人もたいがい大人げないポールの歌だけど、若い頃は世間を知らず痛い目にあってなかったから人と言う字はお互い支えあって〜なんぞというのを信じていられたけど、世間に揉まれて騙し騙されどん底を見て、人の世を生きるとはLive and let dieの境地と見つけたり、という事だってあるじゃないか(Live and let dieの歌詞には「人と言う字は」とか出てきません)。
本気で生きるの死ぬの、という目に遭った事がない子供が「生き延びる為に奴らを殺せ」などと言うのは中二病だけど、本当に地獄を見て泥を啜り殺すか殺されるか、という目をくぐり抜けた人が言うとしたらそれは全く中二ではなく、その地獄を想像も出来ない浅い経験と想像力で「Live and let dieとかww中2w」とか言うのはおまえが中2だ、というのは言うまでもないことで、それと同じように、若い頃は人の善意を、世の中の自浄作用を、投票や民主主義の力を信じて、わたしたちは平和的に世の中を良くする事が出来るはずだ、と信じていた人が刀折れ矢尽き、失望の末に「政治家を殺せ」と言う大人になるという事もあるかと。
いやジョージがそうだという訳ではなく、というかジョージという人は多分あまりあたまがよくないのであの人の場合リアル中2の頃からそうでキープオン中学生のまま死んだんじゃないかと思うんだけど(そしてポールに関して言えばあの人は地獄を見たとかじゃなく単にそういうタイトルの映画の主題歌書いて、と言われたからそういう歌詞を書いただけで何も考えてない)、そして北斎という人も絵を見るからに大人げないので多分ばかだから卍とか名乗っちゃったんだろうなって気がするんだけど、それでもやっぱり大人になって一周回って(ジョージの場合回ってない疑惑がまだあるんだけどな)そこに辿り着いたものを「中二病」というのは違うな、と大人げのないもうすぐ40は思う。
中二中二言えるのも一つの若さ、子供っぽさであるな、と思ったりもする。23歳から27歳くらい、大学卒業してから、三十歳という「若者権」が剥奪される年齢が見えてくる前くらいの年齢というのがそのピークだと個人的には思っている。いろいろと『解ってきた』ばっかりに、『解ったような』事を言いたがる子供っぽさ、自分の『解っている』答えに全てを落とし込み、名付けていい気になる青臭さ。
25歳の私は「自分の世代は年下からは大人扱いされ、年上からは子供扱いされて割に合わん」と思っていたけど、実は年下を子供扱いし、年上を老人扱いしていた。14歳であると言う事はどういう事かよく知っていたけれど、80歳であることは全く知らなくて、それを知らないと言う事を知らなかった。そういう25歳っぷりにつける病名を私は知らない。25歳の私は常に名付ける側だった。中二病という言葉はなかったけれども。
しかし自分が成長してきて今まで見えなかった事が見えてきて、それをアピールし、通り過ぎた所を(時に自嘲を込めて)諌めたいとか見下したいというなら、それはもう人間、幼児が「もうあかちゃんじゃないからしってるもーん」と言いたがり出してから、老人が「わし位の歳になるとのう」とか言いたがるまで一生だよな、とも思う。例えば私くらいのがこうして「中年にさしかかってくると解る事があるのよ」的な事を言いたがるのなんか「不惑病」と名付けてもいい。そして多分六十くらいになって思い出してのたうちまわるのさ。
リアル中二病の強さはその「いつか思い出してのたうちまわるだろう」という自覚の不在にあると思うので、そうなると八十過ぎて大人げない事を言うというのはどうなんだろうな。思い出してのたうちまわりたくなる若気の至りを売る程抱えた上で、思い出してのたうち回る「いつか」の残りが決して多くはない自覚があって言う大人げのない言動。長生きはしたくないけど、でもその境地に達してみたい気はする。今は何か「もう九十歳くらいまで生きたら何言っても許されそうなのでうっかり長生きしたら老人の特権を生かしてあんまりな事を言いまくろう。ボケたフリして会う人皆罵倒しまくろう」とか思ってるんですけど。まあこういうろくでもない大人は多分ろくな老人になりません。はい。解ってます。
ホノルル美術館所蔵 北斎展
三井記念美術館にて、6/14まで(前期〜5/13まで)。
という訳で北斎展。三井記念と出光美術館を勘違いしていて閉館直前とびこみのバッタバタになってしまった(この二つしょっちゅう間違えるんだけど、間違えるというかもうほとんど「区別がついてない」の境地なんだけど何の呪いですか)。
肉筆は二点のみで、版画がほとんど故に見慣れたのも結構あるんだけど、それでも十分楽しめた。富岳三十八景の、例の波(タイトル覚えてないんだよおなじみすぎて。波だよあの)なんか、もう完全にアイコン化して、モナリザとかと同じく、一枚の絵としての美しさとかそういう事を見る存在ではなくなってる感があるけど、こうして改めて見るとやっぱりこの構図、『見栄を切る』=「かっこいいポーズ」で止めて見せるという美意識をそのままモノや空間や時間の流れに持ち込む技前にはしびれる。特に気に入ったのがこれ「木曽路ノ奥阿弥陀ケ滝」。この異様な川の表現のけれん味と、計算しつくされた完璧に美しい白抜きの取り方の洒脱さ。ああかっこいい。しみじみかっこいい。
あと印象に残ったのは、公式サイトにも載ってる「百人一首乳母か繪と起 参議篁」。これはあまりいい意味で印象に残ったんではなくて、波間に見える海女さん達がね、何かこう、バラバラ死体みたいに見えて一瞬「えっ」ってなった。北斎は割と猟奇的なエロティシズムを描くので、その先入観があったのもあるけど。
しかしこの紋様化されたような波の表現はすごく美しい。そしてやはり岩の上にいる海女たちは、ただそれだけなのに何とも言えずエロティックというか、いやらしい。海の中の海女たちがばらばらの身体のパーツに見えたのも、平面的な表現のせいというよりは、その身体の描写のフェティシズムのせいのように思える。いや私の目が穢れているだけな気もするが、それは、まあ、なあ(言葉を濁す)。
北斎の絵は本当にかっこいいと思うんだけど、この「かっこよさ」は写楽のクールさや、国芳の少年漫画的な「かっけー」っぷりとはまた違っていて、何と言ったらいいか解らないけど「キャー北斎さんかっこいー!素敵ー!サインしてー!」ってかっこよさだと思う。ごめん何言ってるか解らないな。うん、書いてる私も解らない。
後期はもうちょっと余裕持って見たいものです。出光じゃないぞ!有楽町の方行っちゃ駄目だぞ俺!
望郷―TOKIORE(I)MIX 山口晃展
メゾンエルメス8階フォーラムにて、5/13まで。
もういっちょ。二回目ながら相変わらず入るのに抵抗あるメゾンエルメスではじめての生山口晃。
セザンヌ展の感想にちろっと書いたけど、この人は上手いとは思ってもずっとミヅマ系にアレルギーがあったり、イケメンだから気に入らないとかヒゲの男前が嫌いだとか主に「顔がいい」という理由で避けていたり、そもそもこういう「すごく上手い」絵の良し悪しが今ひとつ解らないとかで、まあようするに守備範囲外だった。
ただBRUTUSとか、かれのトークショーを紹介しているブログとかで「この人の話は面白いな」と思って、本が読んでみたくなったんだけど、作品を見ないで語る事とかを面白がるのは失礼ではないか、と(最近はちょっと、別に作品を見るのにその人について知る必要がないのと同じく、その人に興味を持つのに作品を愛する必要はなくて、別にそれどっちも許されていいんじゃね?と思ったりもするんだけど、この話は後々つっこんでするかもしれない)。無料でもあるし、一度ちゃんと作品を見ておこうと。
入ってすぐ、山口氏本人による作品コメントが記載されたリーフレットが渡される。これが面白かったのでいちいち引用したいんだけど、全部書いたりするとまずいと思われるので自粛(でも個々の作品に関しては私がよけいな事書くよりこれ読んだ方がいい感じではある。当たり前だけどさ本人の弁なんだから)。展示はインスタレーションと平面との混在。絵画作品もインスタレーションの中に組み込まれているし、平面作品がそのままインスタレーション的なものにもなっているし(後述)、まあその辺は区別しないでもいいような。
まず目に入るのは黒々と塗られた電柱(「忘れじの電柱」)。リアルタイムで日本の風景的なモチーフであると同時に「昭和」的な空気もかもしだす(山口氏は私よりちょっと年上の69年生まれ)電柱とか電線とか。本人解説を読む限り「男子」的な何かを踏まえた作品らしいんだけど(この「男子」性ということについては出来ればご本人の弁を読んで頂きたく)それにはどうにもスマートすぎるような気も。これに限らず、この人の作品は徹底してスマートな印象。汗臭くないし、情念みたいなどろっとしたものもない。現代おアートのドロドロしたはらわた見せたもん勝ちみたいな所に落ちこぼれた人間なのでこれは好もしい(私ジェンフリ厨のフェミナチだから「どうだ僕チン男の子なんだぞー!」って暑苦しく男子心なんぞ表現されましても「うるせえ死ね」としか思えないもんなあ)。
もう一つのインスタレーションは「正しい、しかし間違えている」という、床の傾いた部屋。本人解説によると「その昔『豊島園』のアトラクションで体験した」とのことなので(いろいろと理屈をこねたあとに「というのは作品としての言い訳で実は」的にこういう事を言い出していらした)マジックハウス的なものをイメージしたのか。私はドリフのコントを思い出したんだけど、いや、ごめん。私三半規管が全く仕事する気なくって遠足の時は普段の引っ込み思案っぷりが嘘のように激しく自己主張しあらゆる手段で前の方の席を確保する子だったもので、つまりはこういうのてきめんに酔う。中にドローイングが展示されてて、それじっくり見たかったんだけど、吐きそうになってしまって一分と中にいられない。これはもう、全く作品に罪はなくて私の体質的な問題で文句をたれるつもりはないけど、出来ればドローイング作品とインスタレーションは別に見たかった…。
という訳でこれは涙目で迅速に事態し、最後の「Tokio山水」。「年代の違う6種類の地図とグーグルマップ、個人的な記憶や思い込みなどに依って」描かれている東京俯瞰図の水墨画。
これが先に言った「そのままインスタレーションになっている」平面作品で、何かというとこれ、描きかけなのです。毎日閉館後にちょっとずつ描いて、会期中にどんどん発展していっているらしい。うっすらと鉛筆の下書きの空白部分が島のように残る中、墨で描かれる東京の風景はなるほど、平然といろいろな時代(過去の風景だけでなく、今はないものまでも)が入り交じり、描かれる建物の大きさも現実とは違う。向田邦子がエッセイで「女には地図が描けない。地図には主観が入れられないから」という(まあ実に前時代的なジェンダー観ではあるが)事を書いていたが、これは主観が入った地図だ。「個人的な記憶や思い込み」で、ある建物は必要以上に大きくなるし、実際そこを歩いてみればランドマーク的な訳でも、さして(私にとっては)重要な訳でもない施設が名前入りではっきり書き込まれていたり、しかし位置関係や道の繋がりはあくまで正確。
しかし何より線がいい。全体を見ればああ雪舟好きなんだな、という感じもするけれど、細部を見ていくと独自の、私のようなたまに印刷物を見るだけの人間が見ても「ああ山口晃っぽい」と感じる線と空間。最初に「面白い字を書くな」と思って、字が好きってことは線が好きなはずだと思ったけれど間違ってなかった。線がすごくかっこいい。
空気感も独特で、湿度がある空気なのに絵自体はどこかドライというか、やはりスマートな感じ。思い入れは込めても突き放してべたべたしない。情念をさらけ出さないのが気取った嫌味さ、鼻持ちならなさにならないのは、どこかにユーモアというか、乾いた(時として少し黒い)笑いの要素があるからかもしれない。
ファンになったとは言い難いけれど面白かった。いや、とにかく無茶苦茶に上手いな。今更私が言う事じゃないっていうか、多分日本中の美術ファンで山口晃が上手いって今ごろ言ってるの私だけだって確信あるけど。
という訳で絵を見たので安心して「すゞしろ日記」読もうと思う。日本橋から銀座まで移動がてらに途中丸善でちろっと立ち読みしたけど、奥さんのキャラが実にすばらしい。本当にこの人奥さん好きなんだろうな…。
2012-05-07
ばたばたな一日とカラスの万引き
ともかくも遠雷に気がついて、干していた布団を取り込んだまでは良かったのだ。今日は急に天候が崩れる、という予報は知っていた上で布団を干していたので外には気をつけていて、そろそろ曇ってきたかな、とは思っていたし、Twitterも眺めていたので雨の予兆は感じていた。そこに遠く雷の音だ。まずいな、と布団を取り込んで、一呼吸ついたところでばらばらと雨の音。絶妙なタイミングであった。本当にここまでは全く秩序が保たれていた。
急に降り出した雨は真夏の夕立のような勢いの豪雨と化し、ああこれは今日は外に出られんな、でもちょっと甘い物が欲しいな、時間はあるが外には出られない、よし、と、おもむろに台所に立ち有り合わせでココアケーキ的な何かを作り始める。
最近オーブントースターでもそれなりにお菓子は焼ける、と気づいたので、有り合わせの目分量で適当なものを焼く事を覚えた。目分量な上に粉をふるいにもかけない、製菓の束縛全てに反抗するフリーダム&ワイルド&アナーキーな菓子作りで、まあもちろん出来上がるものには隠しきれないパンクスピリッツが溢れた反体制的自由律菓子なのだが自分ひとりで食う以上は問題ない。ただしトースターはトースターな上に「何分間焼く」などという具体的な数値の概念は、粉さえ計量しない人間には存在しないため、油断すると焦げる。一度など型に引いたクッキングペーパーがはみ出てたのがヒーターに触れて引火してトースターの中で炎上するというパンキッシュ製菓っぷりなので目を離す事は許されない。
さて「だいたい卵とふくらし粉入れときゃ何とかなる」を合い言葉に、粉末ココアと冷蔵庫の奥にいつからあるかよく解らないママレードで味付けした得体が知れない生地を100均パウンド型に流し込んだものをトースターにぶちこんでしばし。トースターつけると部屋が暑くなるな。でも窓開けてるからいい風が入るな。ん、風が入るってことは雨吹き込んでないか、いやぜんぜん入ってこないから大丈夫…とここで気づく。
ヒント:汚部屋とだらしない服装を隠すべくカーテンしめっぱなし。
ヒント2:がっつり厚手の遮光+防火カーテン。
わあわあわあ、と大慌てでずっしり芯まで水を吸って重たいカーテンを外し風呂場に運び、とりあえず絞るがしぼってもしぼっても雨水(自由律俳句)。ばかなのか、この人はばかなのか、と自らに呆れているうちに、ふと気がつけば何か焦げ臭い。そう、ばかなんだ。この人はばかなんだ。疑いの余地もなくばか。あれほど目を離すなと言ったろうが。うん、ケーキ焦げてる(今回はクッキングペーパーのはみ出しは事前に切っておいたため中野区バーニングは回避。まあ一緒に焦げてたけどな)。
そこでまたわあわあわあ、と慌てて取り出し、またわあわあわあ、とカーテンに戻りしばらくわあわあと台所と風呂場を行ったり来たり。大騒ぎするうちにいつの間にか雨もやみ、あら熱が取れたケーキの焦げは幸い上の表面だけで、ここだけこそげおとせば十分食える。見た目がぶさいくなのはもう型にクッキングペーパー敷く時にきちんと折りもせずぐちゃっとつっこんだ時点でこれ以上なくオリジナリティを主張しすぎた見た目であるのでどうでもよろしい。
という訳で大雑把に水分を落としたカーテンを一応吊るし、紅茶を入れて、しかしこれ吊るしっぱなしで自然乾燥したら部屋の湿気がえらいことになるよなあ、と思いながら菓子の既成概念を打ち壊す革命的食物を喰らいつつ一息。
しかし一応しぼった、となっても豪雨を吸うだけ吸った厚手のカーテン、吊るしているうちに下の方に水が降りてきて、ぼたっとしたたり落ちてくる。これはいかん、と窓をあけてカーテンの裾をしぼっていると(一応下の通行人はいないか見ております)階下の庇の上に何かおちてる。そういえばさっきわあわあ言ってる時に何か「ごとっ」て音したっけ、とおそるおそる見上げると、エアコンダクトの周りを塞ぐパテが経年劣化で見事にまっぷたつになって半分転げ落ち、ダクトを通す穴が剥き出しに。
ああ悪かったよ他ならぬ私に五月の雨の午後、自分で焼いたケーキとミルクティで優雅な時間なんて許されないんだな、と、それはもう『自分で焼いた菓子』が自由律すぎる時点でぜんぜん優雅じゃないしあと部屋がとんでもなく汚いし10年近く前に買って首まわりとかだるだるで部屋着に格下げしたトレーナー着てる時点でとかもうそういう事はどうでもいい。とにかく今日はわあわあする日なのだ、と諦めてまたわあわあわあ、と取り乱しながら、しかし一応抜け目無く用意してあるパテでDIY(日曜は大家さんのお店が休みなので連絡つかないのですよ)。ベランダも無い二階窓から身を乗り出しての作業であり、そして私は高所恐怖症なのだがもう「ここで落ちて首折っても『本日のオチ』で済むのではないか」くらいの心境になっていた。
運が悪いのやらいいのやら、パテ埋めが終わるなり雨の第二波がきて、それは手を洗ったりまたカーテン外したり何だりでやり過ごし、それも去ったところでカーテン抱えて近所のコインランドリーへ。
乾燥機にカーテンをぶちこんで、とりあえず回してる間に買い物しちゃおう、と精魂尽き果てつつ商店街に向かった私を出迎えたのは、ドラッグストアの店先からスナック菓子一袋(もちろん未開封)盗んだカラスが一匹、自分の体の半分以上あるような袋をくわえて、雨上がりの空へと意気揚々と飛び去って行く姿であった。
上手く言えないのだが、何だかそれを見るなりさっきまでのどたばたわあわあしていたのがいろいろとどうでもよくなった。さっきまで今日はいきなり大雨が降って、カーテンが水浸しになって、ケーキが焦げて、エアコンダクトのパテがいきなりはがれた日だったのが、この瞬間に「すげえカラスを見た日」に変換されてしまった。何かよく解らないけどカラスすごい。カラスには勝てる気しない。
さすがに感心ばかりもしていられないので、買い物ついでにドラッグストアの店員娘に「さっき外のお菓子、カラスがくわえて持ってくの見たんですが…」と声をかけたところ
「えっ…本当ですか?…カラス……あっ…はい、気をつけます……(間)カラスが……(さらに間)…えぇええぇえええぇ!?(変顔)」
と必要以上に面白いリアクションをしてくれてさらに疲れ切った心が癒されたのだった。いや、うん、気持ちは解る。私も一瞬目を疑ったが残念ながらおばちゃん嘘言って若い子をからかってる訳ではなく全くの真実である。
